<Home> <Info. form Artists>


TOPIC INTERVIEW

奥本亮インタビュー - Part 2 -




プログレバンド、
スポックスビアード、そしてナタリー・コールのバンドメンバーなど、てグローバルな活動を続ける奥本亮。今後、日本で活動も増やしていくという。

「Artist Press Vol. 9」に続き、今回は「LAに拠点を移すきっかけとなったMakin' Rockのレコーディング」「LAの音楽学校とその後の音楽活動」などについてうかがいました。


* 前回のインタビューは、Artist Press Vol. 9 > 奥本亮インタビュー <1>をご覧下さい


奥本亮 Official Web Site: http://www.ryookumoto.com/
奥本亮プロフィールページ


ライブレポート:
Ryo Okumoto Live In Tokyo "Super Jam Session Vol. 2"(2002.12.22)

Ryo Okumoto Super Quartet(2003.2.22)

ソロアルバム「Makin' Rock」
ディック・グローブ・スクール・オブ・ミュージック
LAのミュージックシーン・・・LA、そして世界での活動
プロとして要求される音色

今の日本の音楽シーンについて


ソロアルバム「Makin' Rock」

Q:LAへ行かれたきっかけは「Makin' Rock」のレコーディングですね?このアルバムについてはCD化を熱望しているファンも多いと聞きますが、本当に今聴いても新鮮ですね実際、どのようなレコーディングだったんですか?

Ryo:
ロスでの「Makin' Rock」のレコーディングで日本とアメリカのレベルの違いを肌で感じて、「ロスに行くしかない」と思ったんです。とにかく皆、すごく早くて何回もやりなおさないんです。

4時間ずつ、2日で全曲録ったんです。そんなの普通じゃ考えられないけど、コード譜を持って行って、僕が一度、皆の前でピアノを弾いて聴かせた後、「じゃあ、一回やってみようか」、といって録った1回目のテイクが全部OKだったんです。僕は少し心配になって、最後に「もう一回だけ録って」と頼んで録ってもらったんだけど、やっぱり1回目の方が良かったんです。やはり一回目は周りの音を聴きながら演奏するから、よけいな事をしない。タイトだし・・・もちろん、それだけのテクニックがあるから出来たんだけど・・。前もってコード譜を用意してあった曲が半分。中には譜面の無い曲もありました。

Q: 特に印象に残っていることは?

Ryo:
一番びっくりしたのは、ジェフ・ポーカロのカウント。曲を始める時のカウントですが、あんなカウントを聞いたことなかった。すごくシャープで、ノリがすごく入っていたんです。ハイハットのカウントだけで・・。もう「うわ〜」って思って・・・それが一番印象的だったかな?後は一番最後に入っているピアノだけの曲。あれは2日目僕が、まだ誰もいないスタジオに入って、ピアノでポロ〜ンとアドリブで弾いたのを、たまたま録ったものなんです。



ディック・グローブ・スクール・オブ・ミュージック

Q: 次にLAで通われた音楽学校について教えていただきたいのですが、学校の名前はなんというのですか?

Ryo:
今はもうなくなってしまいましたが、ディック・グローブ・スクール・オブ・ミュージックといってプロを養成するための学校でした。生徒はプロかうまいアマチュアだけ。最初1年はアレンジとコンポーズのコース。映画音楽のコース。僕は全部とりました。先生は一線で活躍している人ばかりで、有名なミュージシャンも多かったのですが、とにかく、ものすごくキツイ。

半年でアレンジの基礎、ヴォイシング、譜面の書き方などを教えて、次の半年で毎週、曲とスコアを書かせてパート譜も書かせる。例えば、木曜日に、「火曜日にポップバラード。オーケストラはリズムセクションとストリングス4人の編成」とく宿題がでると、翌日までに曲、スコア、パート譜を書いて実際に演奏する。もちろんコンダクターは自分。水曜日にその演奏についてのアドバイスを先生からもらう。次の木曜日、今度はラテン、次はカントリー・・・それを半年続けました。入学当時は生徒数44人だったんですが、最後、卒業できたのは6〜7人。ただのロックキーボーディスとして入ったのに卒業するときには80人くらいのオケをコンダクトできるくらいになっていました。

残念なことにその学校は今はないのですが、テキストは残っています。僕はこの学校で学べて本当にラッキーだったと思います。音楽そのものと、あとは「どうやったらハリウッドで生きていけるのか」を教えてもらいました(ディック・グローブ・スクール・オブ・ミュージックのテキストはインターネットで購入可能)。

Q: どうすればハリウッドで生きていけるのですか?

Ryo:
ひとつ例をあげると、パッとコード譜を出されて、すぐカウントから、自分でインロトを作って入れないとだめなんです。エンディングも自分でリードできないとだめ。そういう実際の現場のことや、あとはビジネスの進め方などについても教えてもらいました。「どんな仕事でも拒まないで、とりあえず取っていけ」「成功してくると、仕事をえり好みしたくなるけれど、そういうことをしてはいけない」と。他にも、実践でどうやっていけばいいか、どうやったら仕事がとれるか、キープしていけるか、いろいろなことを教わりました。

 

LAのミュージックシーン・・・LA、そして世界での活動

Q: LAでの最初の仕事は?

Ryo:
ロスに行って間もない頃は、英語もろくにしゃべれなかったのでリトルトーキョーで弾き語りをしていました。

Q: LAでの飛躍するための最初のチャンスは?

Ryo:
ジェニファー・ホリデーからツアーに誘われて、初めてスウェーデンに2週間ツアーに行ったんです。それがきっかけとなってブラックミュージックの世界に入っていったんです。そのジェニファー・ホリデーの仕事は学校時代の知人がきかっけでしたが、初めの5〜6年の仕事は全部学校がきっかけとなっていました。

とにかく向こうはうまい人が多い。そして、いくらうまくても時間に遅れるようではダメ。性格的にも仲間と楽しくやっていけないと、続けられません。本当に厳しい世界です。やはりパワーも違うし、ハリウッドは世界のアートの中心ですから。


Q: 特に印象に残っているアーティストはだれですか?

Ryo:
一番印象に強いのは、アレサ・フランクリンです。本当に彼女はR&Bのクイーンです。僕はB3担当でしたが、ステージのモニターでアリサの声を大きくして聴きながら・・・もう最高でした。

Q:あまりよい表現ではないかもしれないのですが、なぜR&Bやファンクの世界で、日本人である奥本さんが本場で通用したと思われますか?そういうところで活躍する日本人アーティストは、なかなかいないと思うのですが?

Ryo:
僕は70年代に東京でクラブ活動していたんです。いわゆる営業というのを。当時ディスコが流行っていて、クリエイションに入る前、15から19まで3年半くらいの間のことです。その頃クラブで毎日、夜7時から12時まで、12時から4時まで、8回ステージやっていたんです。で、各ステージの間に40分の休憩が入るので、その時間、他のクラブでも演奏して、全部で16ステージ回やっていたんです。その頃、流行っていたのがR&B。1日200曲くらいコピーして、それがすごく良い経験になったんです。ファンクのリズム感もつきました。

Q: 今後、共演してみたいアーティストはだれですか

Ryo:
スティングです。音楽がとても素晴らしい。ロックで、ジャズの要素も入っていて、もちろん歌も素晴らしいです。


Questions:
奥本さんの記憶にある一番古い音(音楽)は?最初に感動した音楽は何ですか?

古い記憶をたどると、5歳の時に聞いたジミー・スミスの「Cats」です。初めて感動したのはDeep Purpleの「Machine Head」。12才の時です。



プロとして要求される音色

Q:前回も楽器や音色についてうかがいましたが、今回は、もう少し別の観点でうかがいます。たとえばアメリカで仕事をとるために必要なサウンド、プロとして要求される音色というのはあるのでしょうか?

Ryo:
80〜90年の話ですが、YAMAHAのエレピの音が流行りました。ミュージシャンは皆、DX7の音源モジュールを7〜8個買って、それで音を作っていました。あとDX7のRhodesとD50のスタッカートヘブを重ねてLAサウンドを作ったり。当時、ライオネル・リッチーがこのDX7&D50のサウンドを聴いて「あ、それ、ラジオにかかる音だ」と言ったそうです。

そういう音がパッと出せるということがとても大事です。あと、ストリングスやブラスでよりリアルなサウンドを再現することが重要です。当時はあまり良いストリングスがなかったから苦労しました。あとクラビネットやシンセブラスなども、今はどのシンセでも出せるけど、その当時はD50でしか出せなかったんです。

後は弾きかた、ボリュームペダルの使い方なんです。ストリングスのボリュームの出し方がうまくいけば、スムーズにいい音が響くんです。今はもう良いストリングスの音があるんだから、後は気持ちの入れ方で、オーケストラになりきって、もたって弾く、とか、いろいろとテクニックがあって、メロディーを弾くときは2オクターヴで弾くんです。1オクターヴよりも2オクターヴのほうが良い音がします。



今の日本の音楽シーンについて

Q: ミューックスクールでのころ、そして本場ロスでのまさに現場のお話など、プロを目指すミュージシャンたちにとって、本当にためになるお話だと思います。そのような経験をされた奥本さんにとって、今の日本のミュージックシーンはどのように思われますか?

Ryo:
今は、好きなアーティストのルーツを聴く。そこから巾を広げていろいろな音楽をきいて、コピーして、勉強する、、というプロセスが少なくなっているように思います。

Q:奥本さんは、クリニックなど、さまざまなアイデアをお持ちだと伺いましたが、どのようなものですか?

Ryo:
いろいろあります。一つはスパルタ式のクリニックツアー。生徒を募集して、一週間、毎日8時間、スパルタ式で行います。向こうとプロミュージシャンとのセッションなどやって、実践に触れられるようなクリニックです。また、ピアノの教則本の企画もあります。「Mother's Music Book」というのですが、全国を回ってその教則本をもとにクリニックを開催して、15分くらいでピアノ初心者でも1曲弾けるようにする、というアイデアです。コードを鳴らしてメロディーを弾けば1曲完成。良い曲は歌うでしょう。歌うから弾けるんです。アメリカには音楽教室が少ないから、みんな自分の耳でコピーしてコードで歌いながらリズム感を養う。ピアノで歌いながら表現する。ミュージシャンになるためには最高の環境ですね。アメリカではもちろん、このようなテキストはありません。それを作ってみたいと思っています。


=================================================

今回は、前回インタビューでご紹介できなかった内容に加え、その後、来日された際に内容を補足していただいたお話も併せて掲載させていただきました。奥本さんは、今年後半より日本での活動も増やされ、現在、本も含めたワールドツアー中です。今後、より一層のご活躍が楽しみです。
(インタビュー実施 2002.12〜2004.6)

=================================================


Interview by Asako Matsuzaka
Photography by Asako Matsuzaka


Copyright (C) 2004 Global Artist Network. All rights reserved.