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Artist Press Vol. 5 > Feature: 難波弘之

難波弘之インタビュー

機材紹介
Live Report: "Thanks to Singers" 21st November 2001 at ON AIR EAST


難波弘之インタビュー

 
たぐい稀な幅の広い感性で、ジャンルを越えて活躍する難波弘之。

プロデビュー25周年を迎えた彼に、音楽的ルーツや自己表現、そしてプログレッシブ・ロックについて語ってもらった。




25周年・・・

Q:今年は25周年ということで、かなり大きなイベントが目白押しだったわけですが、今のお気持ちは?

難波:
やっぱ、早かったですねえ。 「新人だと思っているうちに、いつの間にか中堅になっている」っていう感じの時も「早いな」と思ったんだけど、25年は、やっぱ早いですねえ。


プロ・ミュージシャンに・・・

Q:ミュージシャンになろうと思われたのは?

難波:
学生の時、ミュージシャンになるか、ならないか・・・友達がリクルート活動をやっている時に1人だけそんなことやっていて、すごく不安だったんですよ。当時ライブハウスに一月、2〜3回出ても、収入が一月12,318円とか、そういう世界なんですよ。

そんな時、藤原義久先生(中学時代の音楽の先生)に相談したのかな?そしたら、「やっていけるかどうか、試してあげるから」って言われて、そこで、当時は新しい楽器だったシンセサイザーを山手線で担いで持って行ったんです。「ひらけポンキッキ」っていう子供番組があったでしょ?それの「宇宙船地球号」(藤原義久先生 作曲)っていう曲のレコーディングの仕事をいただいたんですが、結果、藤原先生が「大丈夫」っていう太鼓判押してくれたんです。あと三枝成彰さんと知り合って、HNKの仕事も始めるようになったんです。で、どうにか「メシ食えそう」と思って、やっぱそれまでは非常に不安でしたね。

僕がバックス・バニーに入った時(75年)は、まだレコードデビュー前だったんです。当時はロックバンド、日本のロックっていうものが産業化する前だったんで、メシ食えるかどうか、わかんないわけですよ。なんせね、あの頃って、ロックコンサートでイベンターさんが入っているのっていうのが無くって、だから誰が主催者で、誰が責任者なんだか、全然わかんなかったりしたりね。「終ったはいいけど、ギャラって誰にもらうんだろう?」みたいな・・・だからすごくのんびりしていた、というか、いい加減な世界で、「もらえなくてあたりまえ」みたいな感じだったんですよ。だからバックス・バニーがCBSソニーでシンコーミュージック、大メジャーデビューが決まった時は、びっくりしましたけどね!

Q:難波さんは小説も中学の頃から書かれていたわけですが、小説家になろうとは思われなかったのですか?

難波:
ま、でもね、小説の才能は無かったんで(笑)・・・。賞を取った後が、第二作っていうのが書けないんですよ。それで、同人雑誌はやりながらなんですけど、バンドの方が面白くなってきちゃってね。で、もう、高校・大学はバンドばっかりやっていたんです。


プログレッシヴ・ロック・・・

Q: 難波さんには「プログレッシヴ・ロック」というイメージがあるのですが、もともとはどういった音楽を聴かれていたんですか?

難波:
70年代にプログレッシヴ・ロックはすごく流行ったんですけど、その中に、今フュージョンと呼ばれている音楽、ジャズ・ロックやクロスオーバーも入っていたんですね。

あとはやっぱり、"ごちゃまぜ"にして聴いていましたよね。中高生のころ、すごく音楽が面白くなってきた時だったんですけど、ニュー・ロック、ニュー・ジャズ、ニュー・フォーク・・・全部、"ニュー"とか、"プログレッシヴ"とか、そういう言葉がついていたんです(後にニュー・ミュージックとかいう言葉も生まれましたけど)。

たとえばフォークだったら、泉谷しげるさんのような革新的な人が出てきたり、ジャズでも、その後フュージョンと呼ばれるようになった人たちが、ニュー・ジャズっていうのをやっていたんですよね。峰厚介さんとか、本田竹広さんとか、菊池雅章さん・・・。山下洋輔さんはフリー・ジャズって言ってたけど。スタンダードじゃなくて8ビートとか16ビートとか、"ロックとの融合"みたいな、いわゆるマイルス・デイビスがやっていたことに影響を受けてやり始めた、という感じですよね。

だから僕等、ごっちゃに聴いていたんですよ。リターン・トゥ・フォー・エバー、マイルス・デイビス、ELP、ピンク・フロイド、イエス、サンタナ・・・そういうのを全部"ごちゃまぜ"に聴いていましたよね。ジャンルがどうの、ではなくて。

プログレッシヴ・ロックって言っても、ドイツ系のクラフトワークは後にテクノになるし、「チューブラベルズ」(エクソシストのテーマ作曲)を書いたマイク・オールドフィールドはカンタベリー・ミュージックだし、ジェネシスみたいなフォークっぽいもの、イエスのようにコーラスがと入っているもの、ピンク・フロイドみたいな、今で言う"癒し系"のニュー・エイジ・ミュージックみたいなもの、クリムゾンみたいにどんどんフリー・ジャズのようになっていくバンド、アラン・ホールズワースのいたソフトマシーンみたいなジャズロック系のバンド・・・全部プログレッシヴ・ロックと言っていて「なんでもあり」だったんですよ、僕の中では。

Q:本当になんでもあり、なんですね。私の中ではもう少し壮大なもの・・・というような固定観念があったのですが?そもそも"プログレの定義"とは?

難波:
よく、「プログレがダメになった」とか、「売れなくなった」とか言うけど、ジャンルに「プログレッシヴ」っていう言葉をつけちゃったのが、そもそもの間違いなんです。「ニュー」は新しければよかったんです、消費されていくから・・・。

ブルースとかR&Rとか、スウィング、ゴスペル、R&B・・・いわゆる様式、ある形式のムードを表わすジャンルにしとけばよかったのが、「プログレスしなきゃいけない」となると、そこに時間の要素とか、「進歩しなきゃいけない」っていう脅迫観念が入る。そうすると「やることをやり尽くしちゃって、もう意表をつく方法がなくなってくる」から、"つらく"なりますよね。

だからスティングが言ったように「ハイブリッド」とか、「ミクスチャー」「ノンジャンル」とか・・・そういう言葉にしておけばよかったんですよね。クロスオーバーという言葉のままでもよかったんですが・・・ただ今度は、ジャズ・ロックとかクロスオーバーって言われていたのが、フュージョンになっちゃって、わりとイージー・リスニング、BGMっぽいのになっちゃった。だからそういう意味では、「軟弱になるのが許されない」「形式になるのが許されない」ジャンルになっちゃったんですよ。

 

***コラム***
だから僕はぜんぜん「ジャンル」というものにこだわりはなくて、よくぞスティングが「おれの音楽はハイブリッドだ」と言ってくれたと。最近、若い評論家から「難波さんの音楽ってミクスチャーの元祖ですね」と言われてびっくりしたんだけど(笑)、そういう発想は自分で全くなかったんで、「あー、なるほど、そういう言い方ってあるんだな」と思ってね。「今は便利になったな」と。

 

でも、そうはいっても一部のプログレマニアの中には、当時のへヴィメタと同じように、様式美にこだわっている人たちも結構いるんですよ。
プログレも80年代にポップになって"巻き返し"をはかったんですよ。トレヴァー・ホーンがプロデュースしたイエスとか、ジェネシスも・・・ピーター・ガブリエルもジェネシスを抜けてからポップになってすごく売れたでしょ。

クリムゾンもエイドリアン・ブリュー入って再結成して“ポップで明るい歌もの”をやり始めた。あのアルバム「ディシプリン」は非常にプログレスしたアルバムだと思うしね。それからジェネシスの「インビジブルタッチ」やイエスの「ロンリー・ハート」が入っているアルバム「90125」。それぞれ80年代におけるプログレバンドの行き方、ありかたを示した、非常にプログレスしたアルバムだったんだけど、当時はプログレファンに評判が悪かったんですよね。

今になったらそうでもないかも知れないけど。僕は「十分にプログレスしてる」「十分革新的だ」と思ったんだけど、当時のプログレファンは「より聴きやすいほうにプログレスすると非難する」という傾向にあっったんです。ポップなことをやりはじめると、なんかこう「そっぽを向く」ところが、ちょっとプログレマニアの中にはあってね。

ただ難しければいい、ということではないんです。たとえばキース・エマーソンが「すごいテクニックだ」っていうのは素人にもわかるんだけど、わかりやすいところで「ちゃんとロック」している。皮ジャンきて、バイク飛ばして、自家用飛行機に乗って、いわゆる"不良ロッカー"のイメージって、ちゃんとあってね。オルガン反対から弾いたり、ロックの破壊的な面や通俗的な面をちゃんと持っていて、日本に来た時には山本寛斎の最新ファッションも着て・・・ただ難しいっていうんじゃなくて、その時代の旬の人とは付き合っているし、ツボはあるんですよね。

だから80年代にツボをおさえてポップスをやったバンドが、なんで非難されたのかは、僕はちょっとわからない、「時代にジャストフィットしてどこが悪いの?」っていうね。

僕は、「勘違いもはなはだしい」と思うんだけど・・・ピンク・フロイドの「狂気」なんて、すごいロングセラーで、大メジャーなわけですよ。昔、70年代は、公園通りをイエスとかピンク・フロイドのTシャツを着た若者が闊歩していたわけですからね。ELPも後楽園球場で初めてスタジアムコンサートやって、だからある意味で、非常にメジャーな音楽だったわけですよ。「難波はプログレをメジャー化しようとしている、けしからん」と言われたことがあるんだけど、大笑いで、もともとメジャーだったんですよね。そして、そういうマニアの人がいるから、普通の人が聴きにくいという印象を受けるんじゃないでしょうか?

Q:そんな難波さんが「プログレの貴公子」と言われることに関しては?

難波:
それはね!レコード会社がつけたんですよねえ。最近ね、プログレの父とか言われますが、そんなものの親になった覚えは無い!(笑)

***コラム***
音楽の聴き方っていうのは・・・たとえばジョン・レノンの「イマジン」をカッコいいと思う。あれはプロのピアニストが弾いているピアノじゃなくて、もうロー・インターバル無視して、すごく低いところでゴーンって弾いて・・・あれはジョン・レノンしか出せないサウンドで、それがすごくいいんですよね。

ゴンザロ・ルーバルカバが「イマジン」をカバーしている理由って、そのへんにあるんじゃないのかなと思うんですよね。そういう“コードCの曲”をゴンザロが弾くっていう・・・いくらでも難しいことができる人がね。

ただ単にソロを展開するための素材にすぎなかったんだけど、ゴンザルが弾く「イマジン」っていうのは、単なるスタンダードとしての、ソロを展開するための素材ではないような気がするんですよ。それがいろんな音楽に対する敬意の表し方なのかな、という気がするんです。




原点はGS・・・


Q:難波さんにとっての原点は?

難波:
やっぱり原点はグループ・サウンズですよ、クラシックを除くとね。グループ・サウンズとサイケデリック・ロックですね、夢中になって聴いていたのは。もちろんニュー・ロックって言われている中にあったんだけど。やっぱりゾンビーズやドアーズ、ヴァニラ・ファッジとか、ビリー・ジョエルもハッスルズっていうサイケデリックのバンドやってたり、もちろんデビッド・ボウイ、フー、キンクス、もちろんビートルズの「サージェント・ペパーズ」もね。

あのへんから始まって、GSがコピーしていたサイケデリックの"もと"を聴くようになって・・・特に僕はスパイダースやゴールデン・カップス、ハプニングス・フォーとか、GSの中でも非常に音楽的センスのいいバンド、ちょっと変わったことやるバンド、あとやっぱりキーボードのいるバンドが好きだったんです。ゴールデン・カップスなんか、僕は追っかけやっててね(笑)。で、ミッキー吉野さんに話し掛けたら、歳が1つしか違わないんでビックリした。僕が15の時に彼は16で、もうプロだったんですね。

ゴールデン・カップスの最後の頃、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル(初期)、あとジェスロ・タルとか、ザ・バンドもやっていたんですよ。だからゴールデン・カップスをよくR&Bのバンドだっていうけど(たしかにR&Bの曲もやっていたけど)、「サイケデリックやニュー・ロック、アート・ロックをやっていたカップス」というのが僕の中にあるんですよね。ブルー・コメッツがマウンテンをやっていた時代ですからね!(笑)背広着てマウンテンを演奏しているブルコメってすごいシュールですよね(笑)。

あとは、スパイダース、テンプターズ、タイガーズが解散した後のピッグっていうバンド。日本におけるヴァニラ・ファッジみたいなもんで、GSの中でもうまい人と、ちょっと音楽的志向の変わった人が集まったバンドで、僕はすごく好きだったんです。

だけど日本の当時のリスナーっていうのは、GSというだけで、もう偏見があって、なかなか認めようとしなかったんです。当時(難波さんデビュー少し前 高3か大学1年)、ロックコンサートに、もとGS出身のバンドが出てくると、ものを投げたり、ブーイングしたり、拍手しなかったりとかね。でもへたなロックバンドよりピッグの方が全然うまいんですよね、僕に言わせると(笑)。だけど当時、「あんなの本物じゃない」って言う人もいて。僕に言わせると、ピッグのほうがよっぽど本物だなあ、と思ったんだけど・・・。

だから「僕のルーツは・・・GSが好きです」と言ったら、80年代くらいまではすごくバカにされましたよね。バカにされるというよりは「えー!」みたいな。今はけっこう、カルトの対象になっているから、すこし違うけど。

 

 

バンド・・・

Q:レギュラーバンド・・・SOW, 野獣王国、APJについて?

難波:
野獣で解放できるものと、Sense Of Wonderと・・・それぞれにやる楽しさの度合いが違って、やっぱり野獣王国は、こう風呂敷広げる感じっていうか、ガウガウガウってやっていく感じ。APJはインタープレイを楽しむ感じだし、Sense Of Wonder は「自分が考えたものが形になっていく」、どっちかっていうと「ジオラマを作るのが楽しい」というのに近いのかな。自分が構築した世界を皆で作って、それが演奏されるシーンを見るという・・・、そういう意味では、Sense Of Wonderが一番ストイックっていうか、客観的かもしれないですね。Sense Of Wonder の時は「どこか冷めている」「計算してる」というか、そういうところがありますよね。そうでないと出来ないような種類の音楽なんですよね、たぶん。

Q:難波さんが構築される世界とは?たとえば巽孝之さんは、難波さんの音楽のことを「SF音楽」とも言われていますが・・・

難波:
たとえば自分のアルバムだけど、自分で書いたストーリーのサントラを作るような感じで作っているところがありますよね。絵が浮かんで・・・「SFは絵だね」という言葉があるんですけど(野田昌宏さんの名言)、特にSFの場合は、絵が非常に架空の世界であったり、架空の状況であったり、未来の世界であったりとか、こう決定的に「絵」なんですよね。

だから僕が「すごいな」って思ったのは、それを日本でちゃんとやれた人っていうのが、手塚治虫さんや宮崎駿さん、つまり映像のイメージで表現できた人には漫画家が多いんです。もちろん挿絵画家の小松崎茂さんや真鍋博さんのように自分のスタイルで描いていた人はいるんですけど、やっぱり決定的にモダンなのは手塚さんの絵で、子供心に衝撃というか、今みてもすごいな、と思うんです。




たぶんドイツ表現主義の「カリガリ博士」や「メトロポリス」とか、あのへんのドイツ・ウーハー社の作った映画やディズニーの影響とかもあるとは思うけど、手塚さんの絵っていうのは、非常になんというか、「もしSF作家が絵が描けたら、文章にするよりも悔しがるような感じのもの」を、もう昭和20年代から表現しちゃっていてね。僕の中での「音」っていうのは、そういう絵を見たときに、浮かんでくるような感じのものがあって・・・ミュージシャンって、インスパイアされる元として「映像」っていうのがあると思うんですよ、絵とか映像がね。自分の書いたストーリーの中で、どこが絵になり、どこが音になり、みたいな感じなんですよ。「押さえとかなきゃ」みたいな"ツボ"がね。

Q:難波さんにとっての自己表現としての「音楽と文章」、どちらが先なのかな?と思っていたのですが、まさに同一進行、同一のものなんですね?

難波:
テーマを決めて、自分の小説とアルバムタイトルを同じにして出す「SFコンセプトアルバム」っていうのを作っていて、「飛行船の上のシンセサイザー弾き」っていうのも、アルバムと同じジャケットで同じ日に出したんですよ、LPと文庫本を。

Q:それができるのは、すごいですよね!

難波:
こっち行って曲書いて、こっち行って小説書いて・・・机二つで併行してっていう感じで、けっこう大変だったですけど、それはそれで面白かったです。

Q:難波さんのなかでは、「音楽と文章」が総合して一つの世界ができあがるわけですか?

難波:
ま、でも小説の方はね、自分でもうまいとは思っていないので、やっぱり本職は音楽だと思っているんですよ。小説に関しては一読者というか、うまい人のを読んで恐れ入るっていうのが好きなんで。だから、音楽だけ聴いてもらっても別にかまわないんですよ。音楽も文学も本当に好きで、だからプロなんだけど、ある種アマチュアリズムのようなところがあって、なんか趣味性が強いんでしょうね僕は。

***コラム***

今からでも出来るんだったら、電車の運転手だったら今からでもやってみたいし、あと古本屋もやってみたい・・・

 

作曲、スタイル、音色・・・

Q:先ほど映像によってインスパイアされる、という言われましたが、作曲はどのようにされるのですか?

難波:
はっと、思いついて曲を書くこともありますよ。断片を書きとめておいて後でまとめるとか・・・スラスラできる時もあるし、全然できないときもある。

すごくたくさん書かなきゃいけない時・・・昔、アニメやドラマでは、金曜日に打ち合わせして、土曜日に書いて、日曜日に写譜だして、月曜日に録るとか、そういう感じだったんですよ。ドラマの音楽を毎週録ってたり。とにかくねえ、曲数が多いんですよ。そうするとね、1日10曲書かないといけない。

そうなると、どうしてもネタが尽きてくるから、「似ちゃう」っていうのはありますけどね。でもそんなこといったら、モーツアルトだって、"自分に似た曲"いっぱい書いてるから(笑)、結局それを、誰が聴いても「モーツアルト」ってわかるってのは、そういうことでしょ。誰が聴いても筒美京平さんだとわかるとか、誰が読んでも星新一さんの文章だってわかる、という文体があるじゃないですか。それをマンネリっていう人がいるけど、マンネリじゃなくてスタイルなんですよ。



Q:スタイルというお話がでましたが、難波さんのスタイルとは?

難波:
でも結局ね、なにやっても僕のスタイルになっちゃうんですよね。それは時代劇書こうが、SF書こうが、そういうことですよね。
音についてもやっぱり僕と林秀幸くん(シンセ・プログラマー)はコンビ長いんで、“私たちの音”っていうのがあって、結局、なにやっても"その音"になっちゃうんですよね。


Q:音色へのこだわりは?

難波:
やっぱり美しい音はあくまでも美しく、太い音は太く・・・飛ぶ音はあくまでも飛んでなきゃいけないし、やっぱりオルガンは歪んでないとやだな(笑)・・・いろいろあるわけですよ。メロトロンの音は一番耳に来る、鼻つままれるようなところを、「くいっ」とあげてやると、それらしくなるとかね、そういう意味では、決して今の人が聴きやすい音じゃないかもしれないですね、僕の音の好みっていうのは。どっちかっていうと「70年代のケバ立った音」が好きだから、今のGM音源の通信カラオケみたいな音っていうのは、あんまり好きじゃないんで・・・


Thanks to Singers・・・

Q:"Thanks to Singers"という企画は?

難波:
「25周年で、シンガー集めてやったら面白いんじゃない?」って、今回のプロデューサー吉留大貴君に言われて・・・もともとの案は吉見洋さんっていう僕の落語友達のアイデアなんですよね。「あ、その手があった!」って思いついて・・・あまり「普段やっていない人」を呼ぼうということになって、僕のキャリアスタートの金子マリさん、途中やっていたダイアモンド・ユカイくん、最近知り合った吉良知彦君、最近一緒にレコーディング(「幻想水滸伝」 12月29日発売)をした大木理紗さんとでいこう、ということになったんです。

"Thanks to Singers"「ライブレポート」「難波弘之さんからのメッセージ」「吉留大貴さんからのメッセージ」はこちらをご覧ください。


これから・・・

Q:今後の抱負、トライしたいことは?

難波:
みんなね、映画を撮りたがったりするじゃないですか?「難波さんだったらご自分の原作と音楽で映画やアニメ、ゲームとか出来るんじゃないの?」っていう人がいるんだけど、あんまり僕そういうのね・・・なんていうのかなあ、音楽は音楽で好きすぎて、文学は文学で好きすぎるというところが、たぶんあるんだと思うんですけど・・・あんまり「総合してなんか、それをどうこうしよう」っていうのは、気がないんですね。ただ、「いつかはやってもいいのかな?」と、ちょっとは思いますけどね。


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「幻想水滸伝」のTDの合間に原稿執筆・・・という、過密スケジュールでしたが、とても丁寧にインタビューに応じてくださいました。音楽や文学、そして電車について、とても楽しそうに語られるお姿が印象的でした。(
2001.11.7 U'sUS STDIOにて)
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INTERVIEW & PHOTOGRAPHS: ASAKO MATSUZAKA


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